こないだある経営者さんとお話をしているときに、
〝考え方のキャパ〟について話題になりました。
強烈に自分の『持論』を持っている人の中でも、その考え方のキャパが広い人と狭い人の違いがあるって話になったのですが、
僕自身の中でも意識付けしないといけないことであったので、あらためてブログに書いておこうと思います。
自分の正解は誰かにとって不正解である可能性
自分の経験や勉強したことに基づいて、『これは○○に違いないな!』と感じる事でも、そこに別の見方を上塗りできる〝余裕〟ってあった方がいいんですよね。
自分にとって正解だと信じて貫いていることでも、誰かにとっては(もしくは状況が違う場合においては)それが必ずしも正解であるとは限りません。
このように自分の考え方に幅を持たせておく人と、そうでない人とは、
持論の昇華速度にとても大きな差があるのではないかと僕は思います。
議論の中で相手を打ち負かす(俗にいう論破)は必要な時とそうでない時があって、
『ある一方の側面では...』という別角度の見方ができる方が、より建設的なものの見方ができるのではないかと考えます。
そもそも〝何をもって正解とするか?〟でさえあやふやである場合、
自分とは違う考えを持った人に対して否定的である事は、意味のない事かもしれない。
そう考えていくと、
意見や考え方の相違は絶対に起こるし、あとは着地点はどこか?さえお互いが認識できれば済む話なのかもしれません。
考え方のキャパは自分で危機感をもっている証拠
人の考えを聞いて、それが納得できるものであろうと、そうでなかろうと、
あらたな考え方として自分の中にストックできる能力はとても大事です。
常に自分を更新しようとしている人であればあるほど、考え抜いた持論をさらに発展させたい!という思いが強いですよね。
そして常にそれが新しい考え、今の時流に乗ったものなのか?という危機感を常に持っていると思います。
人はだんだんと年を重ねていくと、考えが凝り固まってきて、頑固になったりしやすいですから、
賢い人はそれを自分で常に危機感を持って脱却しようと努力しています。
- 『自分の考えは古くないか』
- 『思考が止まっていないか』
- 『逆に説を唱えるなら、それをクリアできるか』
これらを常に考えるなら、違う考えや見方の意見は素直にキャパの中で受け入れられるように思うんです。
議論するのはいいですが、それをどう自分のプラスにできるか?は結局自分次第なんです。
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